Web連載
2006年01月05日

『ヒポクラテスの檻』第一回

高輪茂(たかなわ・しげる)
1999年『女肉の館 悪魔の凌辱計画』で、マドンナメイト文庫デビュー。以来、ノンストップでハードな凌辱描写と緻密なストーリーで、新境地を拓く。特に『美人捜査官』シリーズ(マドンナメイト文庫)は、多くのファンに支持され続けている。

第1章 ベストカップルズ

──その1

 大病院の医局であれば患者の緊急を知らせるはずのチャイムが、かたわらで小さく鳴っている。
 室内に貼ったままになっているポスターを剥がすと、南原泰子は長い指先にメンソールのシガーを引っかけたまま、チャイムを消してスピーカーのスイッチをオンにした。スピーカーからは、まだ小さな雑音が聴こえてくるばかりだ。
 泰子はソファに腰掛けながら、ゆっくりと紫煙をポスターに吐きかけた。彼女が剥がした選挙用のポスターには、白衣姿の南原寛がメガネの奥に柔和な笑みを見せている。泰子の遠縁の伯父である南原寛は、先月の総選挙で衆議院議員になったばかりなのだ。
 泰子は片手で所内電話をプッシュすると、別室の研究員たちを呼び出した。
「草野君。そこに白川君もいるの? あなたも、ちょっと部屋に来てちょうだい」
 彼女の部屋のドアには「臨床性医学研究室室長 医学博士南原泰子」と名札がある。城南医科大学付属病院に付設する南原医学研究所の研究棟の一角に、医療品メーカーの出資で開設されて久しい研究室である。実力者の夫をうしなうと同時に医局からも追い出された彼女にとって、ここは最後の砦なのだ。
 二人の研究員が部屋に入ると、泰子は彼らにソファを譲るように小振りなデスクに腰掛けた。
「これを聴いて。御曹司がワシントンからもどって来たらしいわ」
 と、泰子はシガーを燻らせながら研究員たちにスピーカーをしめした。
「最初に誰が挨拶に来るか、声でわかるはずよ。それとも、あの子離れできないママが最初に来るのかしら」
 めでたく代議士になった南原寛の理事長退任とともに、この城南医大病院も新理事長選挙がまもなく始まるはずだった。いま彼女がみずから仕掛けた盗聴器で動向をさぐっているのが、南原寛の息子で次期理事長最有力候補の南原博之なのである。
「ドキドキしますね、室長。若先生のご帰還なら、理事たちも仕事が手につかないんじゃないですかね」
 などと、研究員の草野が泰子にお追従を言う。
 ややあって、スピーカーから南原博之の声が聴こえてきた。話ぶりから、電話をかけている様子だ。
『ああ、僕だけど。悪いけど今夜、こっちに来れないか。うん』
 泰子は研究員たちと顔を見合わせた。
『いや、そうじゃないんだよ。こっちに泊まりなんだよ、今夜からしばらく。うん、うん。じゃあ、君の好きなワインを準備して十一時に待ってる』
 どうやら深夜の来客の約束のようである。
「電話にも盗聴器を仕掛けるべきでしたね、室長」
 と、もうひとりの研究員白川が言う。
「ダメなのよ、電話回線は。理事長の総選挙出馬が決まって以来、情報管理が厳しくなってるの。財界人や政治家からの電話はいっさい取り次がない決まりだし」
 泰子はシガーを灰皿に押しつけると、美しい眉をひそめて思案顔になった。
「誰なんだろう、夜の十一時にプライベートに会う相手なんて……」
 そう言葉に出してから、彼女は思い当たる相手の名前を口にしたのだった。
「電話の話ぶりから考えて、北野英華かもしれないわね。君の好きなワインを準備するって、そう言ってたわよね」
「北野英華って……。ああ、あのトップモデルの?」
「そうよ、あのスレンダーなモデルさん。さしずめベストカップルと言ったところねぇ、マンモス医大病院の経営者一族の御曹司とトップモデルの深夜の密会だなんて。録音しておくつもりだけど、あんたたちも盗み聴きしてみる?」
 泰子の言葉に、二人の研究員はニヤリと視線を合わせたのだった。
「スレンダーとは言っても、背が高いだけで……。脱がせちゃえばガリガリの痩せ女かもしれないけど」
 と、若さを失った熟女は言い添えることを忘れなかった。
 その夜、盗聴器をデジタルんのものにしてセットしたにもかかわらず、南原泰子は室長室で耳をそばだてていた。彼女の二人の若い部下もまた、いったん帰宅してからよこしまな目的のために「出勤」してきたのだった。
「やっぱり来たのね。人の逢瀬は覗いてみたいもの、情事の物音も聴こえるかもしれないわね」
 と、泰子は二人を笑ったものである。
 彼女が肌寒い季節なのに薄手のドレスに着替えたのも、彼らの来訪を期待していたからだった。病院の副理事長だった入り婿の夫を亡くして以来、泰子は自分に人が寄りつかなくなった寂しさを埋めるために、屈強な青年医師を選んで側近にしたのである。
「室長、こっちもワインを準備しました」
 などと、草野が気を利かせている。
「そうねぇ。他人の情事なんて、お酒でも飲まないと聴いてられないかも」
 と、泰子はご機嫌な顔でグラスを準備するのだった。小さな室長デスクの後ろに、彼女はミニバーのセットを隠してあるのだ。
「あなたたち。強いのが欲しいなら、十年物のピュアモルトもあるわよ」
「はいっ、いただきます」
 などと二人の部下は異口同音に、嬉々とした表情で答える。
 盗聴器のスピーカーから会話が聴こえたのは、彼女たちが飲みはじめてから間もなくだった。
「さすがにデジタル音声だわ。ほら、聴いてごらんなさい」
 と、泰子は二人の部下をうながした。
『本当に、元気な顔がみられて良かったわ。電話の声だけじゃ、何だかあなたが帰ってきたリアリティがなくて。ねぇ、触らせて』
『ダラス空港からだと思ったのかい?』
『もっと強くキスして……。だいじょうぶよ、シャワーは浴びてきたわ』
 盗聴器からの生々しい言葉に、泰子は思わず苦笑していた。
「やっぱり北野英華だわ。スカートの中を触らせてるのかしら」
 さすがにショーツの中を探らせてる、などという卑猥な言葉は出せなかった。
 盗聴器の向こうの鼻にかかった『んはぁ……』という吐息が、若い男女の激しい絡み合いを想像させる。脱衣を想像させる衣擦れの音、ときおり『あっ』と喉元から押し出されるような嗚咽……。二人の研究員は押し黙ったまま、ジッと耳をそばだてている。
 つぎに聴こえてきたのは、あきらかにベルトの金具の音だった。
「お坊ちゃん、ズボンを脱いでるわね」
 と、泰子は小さくささやいた。
『好きよ、博之……。あっ、あん』
 盗聴器は窓際のデスクに仕掛けてある。これほど感度がいいということは、デスクに押しつけるような格好で愛撫をしているのだろう、と泰子は想像をたくましくした。
 チュッ、チュという音が聴こえてきた。
「オッパイでも舐めてるのかしら。ん? 乳首にキスをしてるんだわ」
 肌を吸引するような音に耳を凝らしながら、泰子は研究員たちに解説してみせた。
「いいえ、違うわ……」
 猫がミルクを舐めるような音に変わった。そのネットリとした物音から、泰子は美貌のモデルの唇が博之の性器を慈しむ様子を想像していた。
 「これは……、フェラチオを始めたのよ。床に跪いて、あのモデルさんが博之君のを吸ってるんだわ。思ったよりも深い関係になってるみたいだわね」
 と、泰子は思い悩む表情に変わった。
 噂どおり、この大学病院の事実上の継承者が美貌のモデルを嫁に迎えることになれば、泰子の理事職返り咲きは断ち切られることになるのだ。そればかりではない、あの玉の輿女はきっと自分を追い出しにかかるだろう……。と、泰子は軽い戦慄をおぼえた。
 彼女が危機感を抱いたのは、ほかでもない南原一族の傍流がつぎつぎと病院経営から排除され、博之の母親の口利きで参入した人脈に理事会が占められつつあることだった。つい最近も、理事でもない遠山家の若い姪が研究所の所長に就任してもいるのだ。